――――――――――――――――――――――――――― ブラック・ジャック ファン・フィクション ――――――――――――――――――――――――――― 「 伝 言 」                                  金沢みやお     1  ブラック・ジャックの診察室には二時間前から三人の男が立っていた。ドアの側と暖炉の傍らに位置している二人の黒服は、背丈も横幅もある頑丈そうな男達で、明らかにボディーガードの類と思われた。  黒服の一人は、眉が濃く目のぎょろりとした猪首の白人である。襟元が窮屈そうだ。いかつい顔に似合わず、下まつげが妙に長い。ハードボイルド気取りのつもりか、ご丁寧にソフト帽子をかぶり、面白そうな表情でブラック・ジャックを眺めている。  もう一人の黒服は東洋人である。柔らかなウェーブのかかった短めの黒髪を持ち、細く小さな目をしている。謹厳そうに口を横一文字に結び、顔は四角い。四角すぎる。下駄である。火のない暖炉にゆったりともたれた姿勢で、やはりブラック・ジャックから視線を離さない。  三人目の男は力仕事とはあまり関係なさそうであった。  デザインの良い高価なスーツを着た、若くスマートな白人男性である。ていねいに櫛の通った黒い髪には一筋の乱れもない。天井灯の光が、ポマードでなでつけられた男の前髪に綺麗に反射している。あたかも、ニューヨークの投資家か、辣腕の弁護士かのようである。ブラウンのサングラスに目元が隠されているにもかかわらず、女性とも見まがう美しい男であることが分かった。しかし優しさとは無縁の人物に見えた。仕事には妥協を許さぬ大変な切れ者であるらしい。  ロックスレー・F・ホームズと名のったその男は、落ちついた調子でブラック・ジャックに言った。 「いかがですか。ご指定の口座への入金は、確認いただけましたか?」  ブラック・ジャックは、診察机に置かれたネット端末の操作を終わり、慣れた手つきで装置をシャットダウンした。旧式の端末の画面が暗くなった。彼は椅子を回してロックスレーに向き直った。 「確認した。一〇〇万ドルを前払いとは、なんとも気前の良い話だ。もっとも……」  ブラック・ジャックは男をじろりと見て言った。 「こういう場合はたいてい、ろくでもない仕事だ」  ロックスレーは、やれやれと肩をすくめた。 「私達のやり方が多少強引なのは認めます。しかし、どうあっても先生に来ていただく他ありません。私達のボスが大至急最高の外科医を必要としているのです。患者にはもうあまり時間が残されていません。そして患者は、多少手術の困難な場所にいるのです。私達の医療スタッフは、あなた以外には手術は不可能だろうと判断しました」 「それはもう聞いた。しかし、病状も困難な場所とやらも教えてくれない。しかも拘束期間が最長二か月。おまけに、お定まりの他言無用という条件付きだ」 「多額の報酬をすでにお支払いしているのです。そのくらいは辛抱していただきましょう」  ロックスレーが顎を上げ、見下ろすような視線になった。 「まさか今から断るつもりではないでしょうね?。もしそんな事をなさると……」  ブラック・ジャックは渋い顔になった。 「さっきのファイルを公開すると言うんだろう?」 「不本意ですがやむを得ません。先生のこれまでの医療行為を告発するファイルを作成しました。あなたは違法ぎりぎりの危ない綱渡りをしていますが、私達の法律家が多少専門的な活動をすれば、二十二の国と地域であなたは有罪になります」 「無理やり有罪にするんだろう?」 「法解釈を微妙に変える、とでも言ってください。まあ先生にとっては結果は同じですが。あれを関係国の政府や警察に公開すれば、合計四一七年の懲役。そして罰金、追徴金その他が計一億四七〇〇万ドル。それから……」 「わかったわかった」  ブラック・ジャックは両手を上げて降参のポーズをして見せ、うんざりした顔で言った。 「行くよ。どうせお迎えの近くなったボスが、大金を積んででも寿命を買おうと言うんだろう?。これまでも良くあった事だ。南極でもジャングルでも、どこへでも連れていってくれ」 「ご理解いただけて、こんなに喜ばしい事はありません。それではさっそく。おい」  ロックスレーが合図をすると、黒服のソフト帽が外へ出て行き、しばらくすると車のエンジンがかかる音が聞こえてきた。 「では先生準備を。いつもの秘密のコートと、七つ道具のカバンがあれば充分です」 「ちぇ、よく知っているな」  ブラック・ジャックは旅行の準備をし、外出中のピノコへは短い書置きを残した。彼の長期不在には慣れているピノコだが、下手に心配させると何をしでかすか分からない。 (ピノコ。大人しく待っていろ。さっさと片付けて、すぐ帰ってくるからな)  表のポーチに出ると、黒塗りのリムジンが待っていた。ソフト帽がハンドルを握っている。  いつのまにか日が暮れていた。夕凪の時刻なので海からの風はないが、気持ちのよい初夏の宵である。晴れた空には、五つ六つと星がまたたきはじめている。空のずいぶん高いところを飛行機雲を引きながら航空機が飛んでいる。それは金色の点のように強く光って見えた。地上からはもう隠れて見えない夕日を浴びているためである。 (夕空を見上げるのも久しぶりだな。今日はまた空がよく澄んでいる)  と、ブラック・ジャックは一瞬、場違いなことを考えた。  リムジンの広々とした後部座席に、黒服の下駄とブラック・ジャック、そしてロックスレーが乗りこむと、車はすぐに街への一本道を下り始めた。ロックスレーが口を開いた。 「先生の生涯でも、もっとも遠方までの旅になりますよ」 「ふん。私も海外のほとんどの国で仕事をしたがね。行き先が地球の裏側でも驚かないよ」 「もう少し遠くまでです。でも、ここから見えることもありますが」  ブラック・ジャックは面食らった。 「……何を言っている。それはナゾナゾか何かか?」 「先生にはもうお分かりかと思いましたが……。それより、街に出る前に一つ仕事を済ませてしまいましょう。ええと、この風船を取ってください」  ロックスレーが何か肌色をしたものを放ってよこした。ブラック・ジャックが片手で受けとめて見ると、ビーチボールのように空気で膨らませた二頭身の人形である。こけしのような下半身に、ヒョウタンを逆さにして白目を二つ描きこんだような不細工な頭が付いている。  何だこれは、とブラック・ジャックが問いかけようとした時、ヒョウタンの口がツイッと彼の顔を向いた。  続けざまに三つの事が起きた。リムジンの前部座席との間にシュッと防弾ガラスの遮蔽板が立ちあがり後部座席を密閉した。ロックスレーと下駄は、どこから取り出したのか小さなマスクで鼻と口を覆った。続いて、スカーッという間の抜けた音とともにヒョウタンがガスを吹き出した。  いがらっぽいガスをしたたかに吸いこんでしまったブラック・ジャックは、自分の体が急速に座席のシートに横倒しに沈み込むのを感じていた。感じながら腹を立てていた。大声で怒鳴りたかったが、ガスの効果で微かな声しか出なかった。 「何をする!。こんなマネを…しなくても…私は……秘密は……守る!……」  視野が周囲から急速に暗くなり、ブラック・ジャックを見下ろすロックスレーと下駄の顔がどんどん上へ上へと遠く小さくなっていく。ザーッという耳鳴りの向こうからロックスレーの声がかすかに届いてきた。 「申しわけありません先生。これから国際間の約束事をいくつも無視して先生を運ばなければなりません。先生は途中のゴタゴタを知らない方が安全―――――」  くそっ。金持ちどもはいつだって手前勝手で―――。  ブラック・ジャックの意識が暗転した。     2  ゴーゴーヒューヒュー鳴っているのは、風の音か波の音か。窓が開いているのか。いや私の寝室ではこんな音はしない。ここはどこか(ここはどこか、とはどういう意味か)。ピノコはどうした(ピノコ?)。ピノコとは何か。ピノコ………。ピノコ!。  暗い水底から浮かび上がる泡のように、ブラック・ジャックの意識が水面上にポンと飛び出し、彼は目を開いた。  低い天井が見えた。間接照明が半分ほど点灯されている。目玉だけを動かして見まわすと、殺風景な狭い部屋である。机も椅子もない。スチールとプラスチックだけでできているらしい無骨な部屋だ。内装はクリーム色とライトブラウンのツートーンである。壁はクッション材でおおってあるらしく柔らかそうだ。そして、壁や天井の要所要所には、つかみ易そうな取っ手や手すりが設けてある。 (そうか、ロックスレーとか言う若造にガスをかがされたんだったな。いきなり無礼なヤツらだ。しかしあのガスは何だ。後遺症がなければ良いが)  自分の体に目をやると、背の低い固いベッドに寝かされている。胸から下は薄いブランケットが掛けられている。慎重に足や腰や腕、首などをそろそろ動かしてみるが、幸い痛むところはない。 (何だこの妙な感じは。頭が膨らんだような気がするし、浮遊感や酩酊感があるぞ。くそっ、タチの悪い神経性のガスをかがされたのか?)  右手の壁には、スライド式のドアがあるが今は閉ざされている。ドアの横には、最近のオフィスでは普通になった、マルチメディア端末が埋めこまれている。反対の壁には、かなり大きな嵌め殺しの窓があるが、外は真っ暗である。 (夜なのか?。いったいここはどこだ)  さきほどからずっと、微かにゴーゴーという音と振動が伝わってくる。 (動力の音か?。部屋の狭さといい、実用一点張りの内装といい、ここは船の中か?)  ブランケットから、モソモソと腕を出して眺めてみると、いつのまにか着せ替えられている。柔らかだが丈夫そうなツナギのような服だ。フタのあるポケットがたくさん付いている。 (コートを取られたか。あれを着ていないとどうも落ち着かない。  ――ああ、喉が乾いたな。蛇口らしいものは見当たらないが、そのうち誰か来るだろう。どうせビデオで見張っているだろうからな。あっ)  室内が急に明るくなったので、窓を眺めると真っ青な空と白い雲が見えた。見ているうちにも雲はどんどん流れていく。 (夜じゃなかったのか?。なぜ急に空が見えるようになった。やはりこっちが移動しているのか?。トンネルでも抜けたのか?。いや、バカな。それにしても見なれない形の雲だ。 ――あれは何だ。雲の向こう側に図形?……が見えるぞ。どこかで見た図形だ、あれは、あれは―――) 「北海道だ!」  ブラック・ジャックは跳ね起きた。その勢いでベッドに軽く留められていたブランケットがはずれ、彼の体は空中にふわりと浮き上がり、回転しながら天井めがけて飛び出した。 「うわーっ!」  反射的に手足を縮めたが、かえって回転が速くなった。周囲の景色が凄い速さでくるくる入れ替わり、目が回りだした。あわてて手足を大きく伸ばしてみると、回転がゆっくりになったのはよかったが、ほっとする間もなく目の前に壁が迫ってきた。思いきって壁を押し返すと今度は体が逆回転を始め、そのまま床に顔からぶつかった。 「ぶほーっ!」  幸い床もクッションが効いているので、たいして痛くない。しかし、また床を押し戻してしまったので、体はあらぬ方向へ進み出した。 「ひええーっ!」  天井と床と壁の間を二三度往復し、膝やら尻やら頭の天辺やらをぶつけ、ギャグマンガの動きをさんざん実演させられたあげく、どうやら要領が飲みこめてきた。今度はあわてて押し返すのは止め、ぶつかる寸前に腕のクッションを効かせて壁に軟着陸をし、ようやく手で探って取っ手をつかまえるのに成功した。  荒い息をつきながら窓をふりあおぐと、そこに見えているのは紛れもなく、北海道から千島列島そしてカムチャツカ半島である。 「―――ここは、シャトルかステーションか。とにかく、『宇宙』なのか!」  生涯で最も遠い所とは良く言った。しかも、確かに今なら家のポーチからこちらが見えるだろうよ。  ブラック・ジャックは壁の取っ手を順にたどって展望窓にたどり着くと、はじめて落ち着いて地球を眺めた。 「―――― !」  しばらくは言葉も出なかった。  展望窓の向こうには、ほとんど視野一杯に、丸く青い地球が浮かんでいる。大きい。頭をぐるりとめぐらせなければ全貌を眺めることはできない。そして内側から発光しているかのように光り輝いていた。直下の海こそ深い群青の色だが、地球の円周の方へ近づくにつれて、鮮やかな秋空の青、スカイブルー、水色、ライトブルーと、順に白さが増す。円周では雲の白色と判別がつかなくなり、その外側は断ち切ったように宇宙の暗黒で終わっていた。雲はあくまでも白く、春先の残雪のようにまぶしい。大地は、赤茶けた砂漠の色から、豊かな森林地帯の濃い緑色まで、あらゆる色で彩られていた。  乗り物の飛行につれて、眼下の景色もゆっくりと変わっていった。海上にいる時は海面が陽光を反射し、広い範囲の波頭が金銀に光った。陸上にある時は陽光が河川の場所を教えた。川は見えにくいが、陽光を反射する位置に来た時だけ、付近の流域が金色に輝いた。漆器に細工された象嵌のようであった。 (川の流れは、眼底血管の流れと同じような枝分かれをする)  ブラック・ジャックは医師らしい感想を思った。 (すばらしい眺めだ。なんという鮮やかさだ。熱帯の花々の鮮やかさも、この景観の前には、霧の中のガス灯にすぎない。美しく偉大だ。巨大な宝石だ………)  乗り物は、北アメリカ北部に近づいていた。 (あのあたりがロッキー山脈のはずだが、山が全然高く見えないな。もっと盛り上がって見えると思っていた。この巨大なスケールの中では、数千メートル級の山脈ですら誤差のようなものなのか。大陸も半島も薄い紙を切りぬいて貼りつけただけのように見える)  景観を一つも見逃すまいとするブラック・ジャックの視線が、空と宇宙の境界に注目した。 (空の青、雲の白、わずかにピンク色の層があって、その先はすぐに漆黒の宇宙だ。大気の厚さが、わずかあれだけ。たったあれだけしかない、と言うのか……)  彼はもう一度頭をめぐらして、巨大な地球全体を眺めわたした。 (この地球に比べて大気の層はあまりにも薄い。リンゴの皮、いやシャボン玉の皮膜だ。そのシャボンの膜の中で、人間は何百万年もの間、勝った負けた、損した得した、愛した憎んだ、を繰り返してきたんだ。人間が生きられるシャボンの膜は、あまりにも薄い。突つけば簡単に割れる。地球は、美しく、脆い。ガラスの地球―――か)。  ブラック・ジャックは、もちろん知識としての地球を知っていた。しかし、直接自分の目で見た地球の姿は、紙の上での理解を圧倒的に越え彼を魅了した。  かん高い塩辛声が降ってきて、ブラック・ジャックを現実に引き戻した。 「やっと起きたか先生。このネボスケめ!。オハラショースケサンめ!」  振り向くと、目の前にシワだらけの老人が上下逆さまに浮かんでいた。     3  ブラック・ジャックは老人をまじまじと観察した。顔も手足もシワだらけで、ひねこびた小柄の怪老人である。長い眉毛も髪も白い。かなりの高齢である。八十歳はとうに越えているように見える。しかし、茶色い瞳は矍鑠とし、ガキ大将のような悪戯っぽい光をたたえている。どういうつもりか派手なハワイアンシャツと短パンを着てスニーカーを履き、アポロキャップまでかぶっている。ブラック・ジャックは、サーカスで芸をするチンパンジーの衣装を連想した。 「口が開きっぱなしになっておるぞ先生。まだ目が覚めんのか!。このサンネンネタローめ!。ハヤオキハサンモンノトクめ!」  口の悪い老人である。妙に日本語を知っている。押されぎみのブラック・ジャックは、ようやく返して言った 「ネボスケとは何だ。文句なら妙なガスを使ったお前さんの手下に言え。もう一つ言っておくが、サンモンノトクは日本語の使い方が違うぞ爺さん。いや、ミスター・ビリオン・G・リッチマン!」  老人は器用に体を回転させ、ブラック・ジャックと上下の向きを合わせた。 「ふん。わしを知っておったか」 「知らない者がいるものか。お前さんはメディア王のビリオン・リッチマンだ。世界一有名なソフトウェア会社を一代で起こし、通信・放送・出版・ネットワークビジネスの全てで大成功した。強引な商売でも悪名高かったがな。てっきり死んだと思っていたが」 「わしがか?。ひゃっひゃっひゃっ。わしが死ぬよう朝晩お祈りしている商売仇や政治家は多いがな。地上でやることは、もうなくなった。だいぶ前からこっちに上がって来ておる。こっちの無重力は心臓への負担も軽くて体に良いのでな」  それを聞いてブラック・ジャックは仕事を思い出した。 「ふん。長生きしたい大ボスはお前さんか。商売と同じで強引な爺さんだ。私にガスまで嗅がせて連行とは、どういう事だ!」 「ローック!。先生はご機嫌斜めじゃ」  開いていたドアからロックスレーがふわりと入ってきた。ブラック・ジャックと色違いのツナギを着ている。きれいなフォームで空中を飛んで二人のそばに着地した。 「紹介は無用じゃな。秘書のロックじゃ。有能な男じゃよ。可能な限り早急に先生をお連れしろと指示したのは、わしじゃ」 「先生には申しわけない事をしました」  とロックは言ったが、少しも申しわけなさそうな口調ではない。 「少しでも時間を短縮したかったのです。地上での二週間の訓練期間を省略して、先生をここまでお連れするには、あの手段が最良でした。ガスは安全なものです。ご参考までに、ガスの化学式や臨床データなどを、先生の端末に送っておきました。確認はご随意に。それに、あえて言えばガスなど可愛いものです。これからも一定の危険は覚悟していただきます。ここは地上ではありません。外壁のすぐ外は、真空、極低温の宇宙空間です。不注意は死につながります。安全確保のための指示には、先生にも絶対に従っていただきます。危険手当に相当する分も含めて、お支払済みと認識しています」 「だから黙って仕事だけしろと?」  金ずくの言い方にブラック・ジャックは腹を立てた。 「ふざけなさんな。あんたたち金持ちの言いぐさはいつもそうだ。札束で頬を張るようなマネはたくさんだ。私は帰る!」 「先生、どうか冷静に。お分かりでしょうが、先生一人でここからお帰りになるのは……」  ロックはいったん言葉を切って強調した。 「―――絶対に不可能です」  ブラック・ジャックがロックの胸倉をつかみあげ、その手をロックがつかみ返し、二人は無言のまま睨み合った。老人が割って入った。 「先生。まあちょっと待ってくれんか。強引なのは重々承知じゃ。しかし、わしはどうしても先生の力が必要じゃ。どうあっても助けて欲しい人がいるのじゃ!」  助けて欲しい人がいる?。ブラック・ジャックは老人に注目した。 「そうじゃ。患者はわしではない。わしはもう充分生きた。 ―――わしの一番大事な人が、このステーションにおる。その人のために先生の力を貸して欲しいのじゃ。そのためなら、わしにできることは何でもする。よいかな、何でもじゃよ。はばかりながら、メディア王と呼ばれ、競争相手にもそれなりに怖れられたわしが、何でもすると言っておる。合法でも、違法でも、何でも。  ブラック・ジャック君。この白髪頭を下げて頼む。力を貸してくれ。いや、どうあっても貸してもらう。わしの銃であんたを脅かしてでもじゃ!」  老人はそこまで言い終えるとブラック・ジャックを睨みつけた。  ブラック・ジャックは興味を持った。爺さんが必死なのはわかった。それにしても、メディア王ビリオン・リッチマンに、ここまで言わせる人とは何者なのだろう?。  熱くなったのにいくらか照れたのか、老人は調子を落として言葉を足した。 「それに先生、そう慌てて帰ることもない。あの地球をもっと眺めていたいとは思わんかね?」  老人が展望窓を示した。ブラック・ジャックもロックも窓の外の地球を見やった。地球は、変わることなく泰然と青い光を投げかけている。部屋の中に今のいさかいを恥じるような、少し神妙な空気が流れた。 「不思議なものじゃ。わしらはもう数え切れないくらい地球を眺めとる。しかし見飽きるという事がない。時刻や季節、天候や自然現象で、いくらでも表情が変わる。夜明けや日没の見事さは筆舌に尽くしがたい。オーロラがまた見物じゃ。地球の眺めは、まさに奇跡のような恐ろしいほどの美じゃ。  美しいだけではない。わしは地球の姿にパワーを感じておる。高潔なパワーじゃ。それをそばに感じるとき、わしはいつも懺悔したくなる。自分の生涯を思わず振りかえってな。ああ、これはわしだけの感じかも知れんがな。  どうかねブラック・ジャック君。もっと地球を見ていたくはないかね?」  魅力的な話である。老人の言葉にはブラック・ジャックの共感を呼ぶものがあった。強引な連中に折れて力を貸すことになるのが癪で、ブラック・ジャックは内心ジタバタしたが、彼の興味の方が勝った。 「フフフ。爺さんは話が上手い。さすが亀の甲より、だな」  ブラック・ジャックはロックの胸倉から手を離し、彼の肩をとんと突いた。ロックはふわっと漂いだしたが、すぐに手近な壁に着地し、つかまれていた胸の前をぽんぽんと払った。  老人が、ぱん、と両手を打ち鳴らした。 「よし。そうと決まればまずは船を案内しよう。ロックも一緒に来てもらう。先生には船内の地理に慣れてもらわないと困る。『宇宙歩き』も身につけてもらおう。先生はスジが良いからすぐ慣れるよ。起きぬけの大奮闘を見ればわかる」 「やっぱり見ていたのか」 「もちろんじゃ。スタッフには大ウケじゃったよ。あのビデオは売れそうだ」  冗談じゃない!。ブラック・ジャックは大いにむくれたが、彼には珍しく軽口を言った。 「あの出演料は、別料金だ」 「ひゃっひゃっひゃっ。ところで、カメノコウヨリとはなんじゃ?。わしに教えてくれ」     4 「船の名前は、ハイ・ウィングと言う。ビリオン社のものではない。わしの『自家用』じゃ。個人持ちの衛星は四つ上がっておるが、わしのが一番目じゃ。どうじゃ、格好ええじゃろう。およそ三〇〇キロメートルの高度を一周二時間強で地球を巡っておる。全長一〇七メートル、全幅四十一メートル。中央の指令モジュールのまわりに、円筒形の汎用モジュールを十六本組み合わせた形になっておる。汎用モジュールは、居住区や実験区や観測棟に使われておる。他に通信用のアンテナモジュールやシャトルとのドッキングポート、太陽電池パネルや放熱板がある。  ああブラック・ジャック君。そうやって手首の力で動きを止めようとしてはいかん。肩や手首を痛める。腕や膝を使って反動を吸収させて……。そうじゃ。飲みこみが早いな先生。  現在、船長以下二十九名が交代で勤務しておる。全員、ドクターやプロフェッサーを持つ優秀な専門家揃いじゃよ。どうじゃ、たいしたもんじゃろう。  そこがカフェテリアじゃ。食事はそこでしてくれ。残念ながらいわゆるレトルトじゃ。手数じゃが調理は自分で頼む。レンジもそこにある。昔と比べれば味は各段に進歩しておるが、まああまり期待せんでくれ。いくらかは和食も用意してある。  先生の居室はさっきのあそこじゃ。狭いと思ったろうが、あれでもゲスト用のスペシャルルームじゃ。入用なものがあれば端末で言ってくれ。ロックか他のものが対応する。  トイレはそこ。他にもいくつかある。無重力トイレじゃ。説明書きをよく読んでから使ってくれ。さもないと、ひゃっひゃっひゃっ、悲惨な事になる。どうじゃ凄いじゃろう」  老人はひっきりなしにしゃべり続けながら船内を案内してまわった。自分の船が誇らしくてしかたないらしい。おもちゃを自慢する子供のようである。老人は慣れた身のこなしで船内の狭い通路をぴょんぴょんと跳ねどんどん進む。ブラック・ジャックは老人の動きを見て『ターザンの相棒』を連想した。必死で追いすがるうちに、ブラック・ジャックの『宇宙歩き』も、だんだんさまになって来た。ロックは彼の後から苦もなくついて来る。  すれ違うスタッフ達は、老人と気軽な調子で挨拶を交わしている。彼らは、ブラック・ジャックの異様な風貌に一瞬は驚きを見せたが、事前に知らされているのか、期待を込めた視線で目礼を送ってきた。患者の回復は船全体の希望となっているらしい。  船のほぼ中心、指令モジュールの二層目にある一つのドアまで来て老人は進みを止めた。ひっきりなしのおしゃべりが止んだ。 「―――ではブラック・ジャック君。患者に会っていただく。今は眠っておられるが……」  三人はドアをくぐった。そこは、直径五メートルほどの、ほぼ球形をした空間になっていた。照明が抑えられているらしく薄暗い。球形の内壁は、サッカーボールを内側から眺めたらこう見えるかと思わせる、いくつかのパネルに整然と分割されている。パネルとパネルの間は十五センチメートルくらいの溝になっており、そこには、パイプ、ノズル、カメラのレンズ、スポットライト、スピーカー、マイクロホン、その他何かの電子装置が設けられている。今はほとんどのパネルが宵の空のような暗い青色の光を放っているが、一部のパネルは、グラフや刻々と変化する数値や、船内のどこかのビデオ映像を映し出している。パネルは室内照明兼用の画像表示装置になっているらしい。  患者は部屋の中心に柔らかなスポットライトを浴びて浮かんでいた。ゆったりした白いナイトウェアの上下につつまれた、小柄な老婦人である。大層な高齢のようだ。腰と膝をゆるく曲げた、安楽椅子に座ったような姿勢を取っている。両手は胸の上で重ねられ、呼吸に合わせてわずかに上下している。痩せてシワのよった顔は、鼻が高くホリが深い。奥まった目は閉じられている。口元はまっすぐに結ばれ、銀髪は後ろに束ねられていた。厳格で口やかましい昔の女教師を思わせた。 「先生。彼女がわかるかね?」  ブラック・ジャックは驚いていた。 「―――ああ。なんてこった。この御婦人は『闘うマザー』だ」 「そうじゃ。生涯を闘いぬいた、マザー・メアリーライトじゃ。いや今も闘っておるよ」  修道女メアリーライトは、その生涯を、貧困、差別、無知、病気、虐待、戦争、その他およそ人を不幸に陥れる全てを相手に闘った。  気性が激しく行動的な彼女は、難民キャンプといわずスラム街といわず、単身どこにでも飛びこみ、恵まれぬ人々と供に生き、生活を助けた。看病をし、食事の世話をし、子供に文字や歌や遊びを教えた。祈る以外には何もできない事も数え切れずあった。そんな時、彼女の闘志はいよいよかきたてられた。  彼女は手強い交渉人でもあった。資金が必要となれば、大企業のトップ、政治家、富豪、貴族の元を訪れ、粘り強く賢明な交渉を重ね、出資を了解させることができた。トップ達は彼女の利発な闘いぶりに感銘を受け、出資の書類にサインをした後、自分が爽快な気分になっている事に気づくのだった。  権威ある平和賞を受賞したが、授賞式に任地から一人で現われ、著名人や王室が出席するレセプションをすっぽかして、とっとと次の任地へ向かった。  高齢になってからも自ら行動することを止めず、後進の者と同行しては、その体力、精神力を示して、若い修道女を驚嘆、発奮させた。  近年は、時間の多くを思索と祈りにあてていると伝えられていたが、すでに彼女の物語は伝説の域に達しており、近況が報道されることも無くなっていた。 「まさかこんな所にいたとは。しかしマザーは相当の高齢……、少なくとも爺さんより一回りは年上のはずでは?。とうに死んだと思っていた」 「このタワケモノめ!。縁起でもない事を言うでない、ヤブイシャめ!。わしの目の黒い内は、そんな事にはさせん!。―――させたくないのじゃ。しかし……」  ブラック・ジャックは、すでにマザーの症状を見てとっていた。 「末期ガンだな。かなりカヘキシーも進んでいる」 「膵臓ガンじゃ」  老人の表情が苦しくなった。 「数年前、健康なマザーをこっちに連れてきた。半ばムリヤリにな。無重力状態が、色々な病の進行を遅らせるのに有効と聞いたからだ。マザーにお元気なまま、まだまだ長生きして欲しかったのじゃ!。 ところがそれが裏目に出た。膵体ガンが進行していた。それがあまりにゆっくり進んだ。ガン症状が今になってようやく現われた。そのため発見が遅れたのじゃ」 「いつガンだとわかった」 「六日前」 「マザーはこのことを?」 「もちろん知っている。わしはマザーに隠し事のできる人間を見たことがない」 「カルテを見たい」  ロックが手首の小さな装置を操作すると、手近のパネルに医療記録やエックス線像などが幾つも表示された。ブラック・ジャックはデータを順に眺めていったが、途中で見るのを止め長い溜息をついた。 「―――もう手術は手遅れだ。しかもマザーは一〇〇歳近い高齢だ。常識で考えてもこんな大手術には耐えられないだろう」 「わしの医療スタッフも同じ結論を出しおった。だがその結論に納得したのなら、わざわざ先生を無理やり呼んだりはせん」 「私を神様か何かと勘違いされちゃこまるね。無理なものは無理だ」 「無理は承知じゃ!。―――これはマザーの希望なのじゃ。マザーには『やりのこした仕事』がある。それを片付けるのにどうしても後少し時間が必要なのじゃ。マザーは今回も闘う気でおる。わずかでもチャンスがある時、挑まずにあきらめることはマザーにはできん。彼女は今でも『闘うマザー』なんじゃ!」 「―――マザーと話をさせてくれ」 「ああ、彼女が起きたらじきにな」  かん高い微かな音がしているのにブラック・ジャックは気づいた。見ると、彼女が身動きをしたのか、マザーの体がゆっくりと回転し、部屋の中心からずれはじめている。が、見ている間に回転は止まり、同時に音の高さが変わった。体が逆方向への回転をはじめ、元の位置に動きだした。続いて壁面の数ヶ所から小刻みな音が断続して起こり動きが停止した。 「なんだ?」 「エアで支えておる。優しくな。壁から細い風を起こしてマザーの位置を保っておる」 「大変な仕掛けだな」 「ああ。このマザーの部屋――わしらは『礼拝堂』と言っておるが――だけでも、ひと財産じゃ」  ブラック・ジャックは中心に浮かぶマザーをしばらく見ていたが、ロックの方に向き直った。 「ロック。お前さんに聞こうか。まだ、大事なところを一つ説明してくれていないな」 「はい」 「お前さんたちは私に、無重力状態での外科手術をやれ、と言うのだな?」 「その通りです。マザーは長期間、無重力状態にありました。筋力も骨組織も衰えています。もう有重力下には戻せません」 「ロシアやNASAに、無重力下での手術の前例はあるのか?」 「ガン治療のような大掛かりな前例はありません」  ブラック・ジャックの頭ががっくり下がった。 「―――名誉ある世界最初の試みか。お前さんたちは無茶苦茶だ。またとんでもない事を考えたな」 「これができるのは、おそらく先生だけでしょう。多くの一流の外科医に打診しましたが、皆さん辞退しました。この条件に恐れをなして逃げたのでしょう」 「あたりまえだ!」 「しかし先生は、これまでいくつもの奇跡を起こしています。  全くの暗闇での手術。急流を下るイカダでメスを振るった事もありました。患者の体を空中に吊上げての手術さえ実行しています。だれもが不可能と考えましたが、先生はいずれも成功させています」 「だが無重力だぞ。どうやって患者をささえる。臓器の動きも異なるだろう。だいたい出血をどうする」 「あらかじめ医療スタッフとディスカッションした対応案があります。先ほどのエア制御を拡張した手段で先生を支援します。先生とスタッフで詳細を詰めましょう。前例の無い試みですが、大いにやる価値があります。今後の宇宙医療への貢献にもなります」  これまで冷静だったロックの口調が熱っぽい。このロックもマザーを救いたがっている一人なのだ。 「いいだろう。『闘うマザー』の手術にはふさわしい。お前さんたちは無茶苦茶だが、私にも無茶苦茶が伝染ってきたらしい」  老人の提案で一旦休憩することにして三人は礼拝堂を出た。老人は一休みすると言ってふわりと飛んでいった。  それを見送って、ブラック・ジャックはロックに尋ねた。 「爺さんはどうしてここまでマザーに肩入れする?」 「これは、今では公然の秘密といった所の話ですが……。会長はあるスラムの出身なのです。会長が七つか八つの時、そのスラムにマザーが来ました。若くて元気一杯の、見習修道女に過ぎないマザーです。初め会長はマザーを散々てこずらせたらしいのですが、マザーの熱意のほうが勝ちました。会長は、読み書きを知り、計算を知り、学校と勉強の喜びを知ったのです。マザーの力添えでハイスクールにも入ることができました。会長には才能もありましたが、大変な努力を重ねたようです。奨学金を得て大学へ進み、在学中に仲間と、自分達の小さな会社を起こしました。その会社で、会長の技術者としての才能と、ビジネスマンとしての才能が開花しました。それが今のビリオン社の前身です。以後の成功はご存知の通りです。  会長はよく言っています。マザーに出会っていなければ、あのスラムを出ることもなく、つまらないケンカか、薬でとうにくたばっていただろうと。  会長はマザーに大恩を感じているのです」  ブラック・ジャックはうなずいた。 「こらあロック。余計な事をしゃべるな、このキューカンチョーめ!」  向こうへ行ったはずの会長が、勢い良く空中を飛んできた。地獄耳である。照れているのか心なしか顔が赤い。ロックは文句を言われ慣れているのか、肩をすくめただけで言った。 「ひどいな。いつも会長がご自分で話されている事ではありませんか」  老人は一瞬詰まり、振り上げた手の置き所に困った様子でぶつぶつ言った。 「自分で言うのは良いが、人に説明されると居心地が悪いのじゃ!」     5  地球は北アフリカからアラビア半島付近の姿を見せていた。サハラ砂漠の一部がぼやけて見えるのは砂嵐である。礼拝堂に立ったブラック・ジャックは、壁面パネルのディスプレイを通してそれを見ていた。  マザーは目覚めていた。瞳が青い。頬が痩せたためもあって厳しい表情に見えたが、視線は柔らかく暖かい。濃紺の照明の中、彼女は青と白に輝く丸い地球の映像を背景に浮かんでいた。 (まるで後光だな。印象的だ)  現実的なブラック・ジャックも、その構図には心を動かされるものがあった。 「ブラック・ジャック先生。お話の続きをどうぞ」  マザーは言った。さすがに声質は枯れているが、明瞭なしっかりした声である。 「ああそうだった。今も言ったように、これは難しい手術になる。成功の約束は誰にもできない。あんたの体力が持たないかもわからない。うまくいったとしても、長くは生きられないよ。マザー、それでも手術をするかい?」 「はい。しっかりお願いしましたよ、ブラック・ジャック先生。私のチャンスはそこだけにあります」 「わかった」 「ブラック・ジャック先生。仮に成功したとして、あとどのくらい生きられるでしょうか?」 「―――おそらく、二週間から三週間」  マザーはにこりとした。 「さすがブラック・ジャック先生。はっきり言ってくださってありがとう。それだけあれば、きっと充分です」 「あんたの『やりのこした仕事』か。―――マザー、いったい何をする気だ」 「神様に文句を言いに行きます」 「――――― !?」  予想もしない答えにブラック・ジャックは絶句した。マザーは楽しそうに笑い声を上げた。 「あっはっはっは。ブラック・ジャック先生、いよいよ私がボケたと思いましたか?。無理もありません。でも、簡単に言うとそういうことなのよ。私は神様に一言いってやりたいのです」  マザーはしばらく目を閉じて黙った。 「世紀が新しくなっても、私達人間はあいかわらず愚かなままです。悲惨な内戦が続いています。どこでも真っ先に子供達が不幸になります。飢えや恐怖に苦しむ子供、地雷で手足を失う子供は後を絶ちません。それどころか、自ら武器を取り敵を殺すことを誇りに思うように教え込まれてしまった子供達も大勢います。悲しいことです。  私は世界のあちこちで無意味に死んでいく人達をたくさん見ました。彼らに何一つできない時がいくらでもありました。そんな時によく思いました。神様はなぜ何もなさらないのか?。なぜこの悲惨さを一掃する業を示されないのか?。一心に祈りましたが、奇跡などは起こりませんでした。  ―――こちらに来て初めて外から地球を見ました。ブラック・ジャック先生、あなたも見たわね?。どう思いましたか?」  彼は、マザーが急に話を変えたのにとまどったが、印象を短く答えた。 「地球は、美しく、かけがえなく、脆い」 「良いお答え。その通りよ。そして私はもう一つ思ったのです。人間はどこにいるの?、とね。  ビリオン君たちに見かたを教わり、ロック君にパネルの倍率を上げてもらったら、ようやく人間の居るしるしが見えてきました。  万里の長城、スエズ運河、アフリカの焼畑の煙。アメリカとカナダの間には、面白いことに『国境線』が見えるのよ!。そこで農地が変わり作物が変わるので、空から見える色も変わり、国境線が浮かび上がって見えるのです。ブラック・ジャック先生のお国の、イカツリブネのイサリビを見たこともあります。そして、中近東の爆撃の光も……。  でも、見るべき所をあらかじめ知らないと、見逃してしまうのですよ。  この高みから眺めていると、人間がいろいろな事を、すばらしい事や、なにかろくでもない事をしていることなど分かりません。いえ、人間がいることさえ気づかないのです。  ―――私は思うのです。神様は地球を美しく創っただけで満足してしまい、後から生まれた私達のことなど、初めから御存知ではないのではないか。磨き上げた美しい宝石を、黒いビロードの上に並べてご覧になるが、宝石の上で小さな小さな私達が生きていることなど、気にも留めておられないのではないか……」 「―――マザーのあんたが、そんな事を言っていいのかい?」 「あっはっはっは。そうですね、ブラック・ジャック先生。私が言ってはならないことでしょう。ですが、この思いがどうしても頭を去らないのです。  私はそれからの時間ずっと祈ってきました。『私達はここにいます。私達はここで生きています。こっちを見て』と。  どうしてもあと少しの時間祈りつづけたいのです。―――届きそうに感じているのです」  ブラック・ジャックは思わずマザーを見返した。彼女は、穏やかに落ち着いて見えた。正気を疑わせる所はどこにもない。 「深い祈りに入っている時、私は大きくて立派な両開きのドアを見るようになりました。大変に歴史の古そうなものです。でも手入れが行き届いていて飴色にピカピカしています。それには綺麗な模様が彫り込まれていて、私の背丈の十倍もあります。私は子供になっていて、そのドアの前で一人で遊んでいるのです。  ドアは閉じられていますが、ドアの向こうに気配を感じるのです。りっぱな方達が、美しくて途方もなく賢い方達が、子供の私にはわからない何かをしておられるのです。ちょうど、部屋の中で行われている大人達の難しい話し合い――政治か、経済か――を、何もわからない子供が、厚いドアごしに微かに漏れ聞いているようです。  きのう私はとうとうドアを押しました。子供の力の続く限り押して押して、でも少しもドアは動かずもうだめと思った時、ドアに細いすきまが開き向こうの光が漏れてきたのです。でも、あっと思ったとたんにドアは消え、私はここに浮かんでいるだけでした。  私はあの先に進みたい。ドアを押し開けて走りこんで、三つ四つの幼女のように駄々をこね、床にひっくり返って足をバタバタさせ、立派な方の関心を引きたい。『わたしたちはここにいるのよ、こっちをみてよ。こまってるの、いたいの、かなしいの』と騒ぎ立ててやりたい。―――これが私の最後の仕事です。  だからブラック・ジャック先生。―――私をあとしばらくの間、生かしてください」  マザー、それはあんたの強い願望が生んだ幻覚だ……。ブラック・ジャックの医者の部分はそう分析していた。神学的な話にもあまり関心がない。しかし、彼女の確信の前に、安易な分析を述べたところで無意味と思われた。その確信が手術を耐えぬく支えになるなら言う事はない。 「私はこの何十年の間、自分のためのお願いというものをしたことがありません。でも今度だけはわがままを言います。ブラック・ジャック先生。このお婆さんの最初で最後のお願い、聞いてくださるわよね?」  ブラック・ジャックは、とうに彼女に降参していた。 「―――あんたの闘いに参加する」     6 「おいロック、これ以上は『意外な登場人物』はいないんだろうな?」  ミーティングの席上、ブラック・ジャックは半ばあきれて言った。  ロックが会議場所に指定した礼拝堂には、ロック、ブラック・ジャック、マザーの看護士三名が集まっていた。マザーも興味津々の様子で話を聞いている。六人も入ると、礼拝堂は狭く感じた。冒頭にロックが紹介した『医療スタッフ』にブラック・ジャックは驚かされたのである。 『そうです。私は船内マスターコンピュータのトワニーです』  コンピュータは、有能で自信に満ちた中年女性の声で言った。これはさしずめ『秘書』か『婦長』の声だな、とブラック・ジャックは思った。ロックが謝った。 「いや失礼。意外な人物などはいませんよ。私達は彼女がいるのを当たり前に思っていますから、つい紹介が遅れました。トワニーは、最新のAIエンジンを搭載した、第七世代コンピュータです。本体は指令モジュールの下部に設置されています。正しくは、QLC-U-21-A003と言います」 「U-21だって?」  ブラック・ジャックは聞きとがめた。その名前には懐かしい響きがあった。 「トワニー。お前さんはどこで造られた?」 『私はイリノイ州アーバナにある、ワットマン・サムソン社のFAB5で起動されました』 「―――ワットマン。やはりそうか。トワニー。U-18を知っているか?」 『はいドクター。過去に米国のサウス・ダコタ州で機能不全を起こした、不名誉な旧世代機です』  ブラック・ジャックは当時、U-18の機能回復に関わったのである。 「私を憶えているか?」 『いいえ。ドクターがU-18に会われたという記録は知っていますが、U-18自体の記憶は持たされていません。U-18は引退し、その情報資源は私のような後継のマシンに引き継がれないよう意図的に絶縁されました。機能不全の伝染を怖れたのです。  私はアルゴリズムを全面的に改良され、新たにコールドスタートされました。さらに、私のハードウェアは新しいテクノロジーに基づく論理素子で作られています。性能はU-18の比ではありません』  誇らしげである。U-18とは無関係と聞き、ブラック・ジャックは少し残念に思った。  ブラック・ジャックはトワニーを口頭試問した。医学的知識を確かめる質問を、やつぎばやに四十余り投げかけたのである。トワニーはその試験をやすやすと通過した。 「なるほど立派なものだ。しかし、まさか影に先生が隠れていてカンニング、なんてことはあるまいな。トワニー、お前さんは本当にコンピュータか?」 『試してみてください』 「そうだな……。πの数列の中で、最初に123456789の並びが現われるのは何桁目―――」  質問が終わるのを待たずにトワニーが答えた。 『五億二三五五万一五〇二桁目からです。ドクター、面白いことをご存知ですね』 「―――なるほど……。わかったよ、お前さんは本物らしい。こんなコンピュータが完成しているのなら、次は赤いブーツをはいた少年型のロボットが出てくるんじゃないのか?」  ロックがけげんな顔をして言った。 「そんな人間型のロボットは容易にはできませんよ。それにこの船内でわざわざ二足歩行をさせる意味が―――。何の話ですか赤いブーツのロボットとは?」 「いや何でもない。日本人の夢だよ」  ブラック・ジャックはもごもごと言った。  五人とトワニーのディスカッションが始まった。消毒の方法はどうするか、麻酔はどうするか、点滴は、体温や血圧のモニターは、室温は、無影灯は……。全ての手順や機材について確認が必要だった。ブラック・ジャックはあらかじめ作られていた行動案を検討し、細部を看護士やトワニーと調整し分担を決めていった。  患者の位置固定は、やはりエアで行うことになった。エア制御はトワニーが行う。リアルタイムで臨機応変にエアをコントロールすることは彼女にしかできなかった。ブラック・ジャック自身は、礼拝堂の壁面に『立って』執刀することになった。エア制御の負荷を減らすとともに、彼の『ふんばり』が効くことを狙ってのことである。壁に立つために、看護士が日常的に使っている履物――靴底にゲル状の材質を使い、軽い粘着性がある――を着用することにした。手術中は礼拝堂にマザーとブラック・ジャックしか入れない。エア制御の死角を最小にするためである。助手無しとするとメスや鉗子をどこに置きブラック・ジャックはそれをどう取るのか。緊急事態にはどうアクションするか。礼拝堂横のモニタールーム側は何をどこまで支援するか………。解決すべき事、あらかじめ決めておくべき事は、幾らでもあった。  ブラック・ジャックは、オペに実績のないエア制御を気にした。 「エアで押すのは良いとして、『引く』ことができるかな?。反対側から押す手もあるが、押すばかりでは室内の気圧が上がってしまう。それに、室内の任意の位置からピンポイント的に『引く』なんて芸当ができるか?。出血の問題も同じだ。ドレーンで吸うにしても、空中に滴となって散らばるのは避けられない。滴が空中を漂っては危険だ。これを回収できるか?」  トワニーが答えた。 『ナーゼンコップ - ヨークシャー・ベルの理論を応用して、空気部品を作ります』 「―――なんだそれは。分かるように話してくれ」 『空気分子を特殊な方法で励起して、ある種のスピンを掛けます。それには、エキサイターという装置を使います。励起状態となった分子は、それを電磁気的に操作できるようになります。この操作を精密にコントロールすることによって、空気を材料として、空中に板や棒やパイプを自由に作ったり消したりできるようになるのです。出血は空気部品のパイプを作って室外の処理槽まで導きます。同様にしてパイプを一時的に作り、室内の狙い定めた場所から空気を『引く』事をやります』 「………冗談だな?」 『冗談ではありません。可能です。ご希望でしたら原論文と関連資料のコピーをさしあげます。ざっと二万ページありまして、読みこなすにはかなり高度な専門知識が必要で―――』 「そんな余裕があるものか!。実績はあるのか?」 『ここ礼拝堂に装置は準備してあります。マザーの暮らしを便利にするために実験運用を始めています』 「実験レベルのシステムを、本番のオペに使うのか?」 『他に方法はありません。私には自信があります』 「それが本当に可能なら」  ブラック・ジャックの腕が急に動いた。 「これを止めてみろ!」  セラミックのメスが、トワニーのモニターカメラの一つに飛んだ。ロックたちが、あっと声を上げた。  トワニーは、およそ四〇〇分の一秒周期でブラック・ジャックをずっと観察していた。会話の流れ、心拍数の変化、筋肉の緊張の様子から、彼が何かを投げると予測した。ブラック・ジャックの右手がポケットに向けて動き始めた時点で、すでにメス投げの可能性が最大になったと見積もり、メスを止める手段の検討に入った。手からメスが離れた。数回の測定を繰り返して、メスの速度、方向を求め、光線反射率と形状からセラミックメスであると同定した。壁面からのエアで打ち落とす策は、エアが目標に到達するまでの時間遅れが大きく、追従できないと判断して却下した。メスは軸を中心にわずかに回転しながら、一直線にカメラアイめがけてノロノロと飛んでいる。トワニーは、現時点での到達予想位置を、カメラアイ右上三センチメートル地点を中心とした半径五センチメートルの円内と予測した。ブラック・ジャックのメス投げは評判通りに正確だ。トワニーはその評価値で彼の人物プロファイルを書き換えた。メスは空気部品で阻止することにした。部品の形は、難易度の高い『パイプ』にした。メスの幅よりもやや広い入り口を持ち、出口の閉じた長さ一メートルほどの円錐形のパイプを設計した。空気を励起するエキサイターは常時稼動している。トワニーはメスの進行方向直前に空気部品を投影した。大気と空気部品の屈折率にわずかに差があるため、メスの進路にパイプ状のものがうっすらと見えた。トワニーは待った。  ブラック・ジャックはメスの飛跡を注視した。このまま進むとカメラアイを砕く。しかし、メスはぐぐっとスピードを落とした。透明なトリモチの塊にめり込んだかのように、何かにからみつかれて、メスは完全に空中に停止した。  それだけではない。メスはそのままの姿勢で逆戻りをしてきた。秒速五十センチメートルくらいの、のんびりした速度だ。トワニーがメスの前後で空気部品の生成・消滅を繰り返してメスを押してきているのである。  ブラック・ジャックは、二本も三本も参った表情で右手を出した。メスはぴたりと彼の手の中に収まった。  マザーが面白そうに笑い声をあげ、ぽんぽんと拍手をした。  ロックが止めていた息をはきだした。 「先生、極端な試し方をしないでくださいよ」 「あれが止められないようでは使い物にならんよ。おかげで問題がもう一つ片付いた。トワニーには助手も担当してもらおう。トワニー!。私にメスや鉗子を渡す役をしてくれ」 『わかりましたドクター』  ブラック・ジャックは内心でつぶやいた。 (トワニー。お前さんは格好良すぎだ。今回の私は格好良くないな)  ディスカッションはさらに細部に分け入り、休憩をはさんでいつまでも続いた。     7  三十七時間後。礼拝堂はかなり様変わりしていた。  床や壁の数か所には、麻酔、点滴、人工呼吸用の小型装置が、エア制御の邪魔にならない位置に置かれた。装置からは細くしなやかなチューブが、部屋の中央で眠るマザーに届いている。マザーはすでにエアのベッドに横たわり、鼻と口は呼吸器のマスクで覆われている。パネルの照明が多方向からマザーに集められ、彼女を明るく照らした。パネルのうち二面は、隣接するモニタールームを映し出している。そちらには、ロック、ビリオン会長、看護士他の関係者が詰め、こちらをのぞきこんだり、直前の機材チェックを繰り返したりしている。モニタールームにある同様のパネルには礼拝堂の内部が表示されているはずであり、パネルを窓として互いの姿が見えるようになっている。ビリオン会長はこちらを正視できない様子で、両手を握り合わせ頭を垂れている。ロックの声がブラック・ジャックのインカムから聞こえてきた。 「先生。こちらの準備は整いました。トワニーのエア制御パラメータ微調整も終了して待機しています。そちらはいかがですか?」  ブラック・ジャックはマザーの脇に立っていた。頭髪は帽子でまとめ、オペ用にモスグリーンのツナギに着替えていた。彼の胸の高さに、ステンレスのバットがいくつも浮かんでいる。そこにはメスや鉗子その他の手術道具が整然と並べられていた。 「OKだ」  準備完了した室内を見渡してから、ブラック・ジャックは宣言した。 「これより膵臓部手術を始める!」  モニタールームの全員がブラック・ジャックに注目した。 「膵臓は摘出。胃、十二指腸部は腫瘍を確認し、必要なら切除を行う。なお患者は非常に高齢である。さらにこれは前例のない極めて特殊なオペである。諸君の細心の注意を期待する」 「了解」 『はいドクター』  室内外が緊張した。 「麻酔は?」 『背麻旋行、Th5まで麻酔OKです。ブドウ糖点滴を始めます』  トワニーがてきぱきと答えた。 「よし。血圧と呼吸に気をつけろ」 『酸素吸入をそのまま続けます』 「上腹部正中切開。メス」 『はいドクター』  いよいよだ。ブラック・ジャックが手をさし出した。並べられたメスのうち、右端の一本が浮かび上がり、空中を飛んで彼の手に収まった。その調子だトワニー。  ブラック・ジャックは患者の腹部を指先で少し押してみた。ただちにエアの射出音が変化した。体が少し沈みかけたがトワニーの制御ですぐに元に戻る。戻るまでにコンマ何秒かの時間遅れがあった。 (なるほど。クッションの効きすぎたベッドにいる患者をオペするようだな。この遅れ時間を読めば何とかなりそうだ)  ブラック・ジャックは、努めていつも通りに最初のメスを走らせた。  腹部が開いた。切開部から血液がしみだしたが、下に流れ落ちず血液の玉に成長していく。ある大きさまでくると自分の重さに表面張力が耐えきれなくなり、いくつもの小さな滴に分裂して漂いはじめた。 「トワニー!、どうなっている?」 『だいじょうぶですドクター』  上昇しかけていた滴が扁平になり、下降をはじめた。他の滴もおなじように沈んでいく。空気部品の透明な板が上から降りてきて滴を追いつめているようだ。続いて、滴の群れが一斉に患者の足元方向へ移動を始めた。移動しながら互いにくっつき合い一列に整列を始め、急速に速度を上げて排出槽へ吸いこまれた。 「いいぞトワニー。その調子だ」  ブラック・ジャックは作業を進めた。タンポナーデを受けとって切開部の血液を拭き取り、開腹器で押し広げた。彼の振るまいに同調して、トワニーはエアの射出と排出を順次切り替えていった。壁面に装備されているエアのノズルが、さまざまな高低の音を出した。 「胃腸間膜を結紮切断」  ブラック・ジャックは胃に到達した。膵臓は胃の背後にある。胃腸をわきによけて膵臓を露出しなければならない。 「腸鉗子!」 『はいドクター』  トワニーは空気部品を操って手術道具を手渡して行く。ブラック・ジャックのリクエストを予測して、いくつかの道具はあらかじめ空中に待機させている。メスや鉗子が空中に大人しく並んで出番を待っている。聞き分けの良い子犬のようだな、とブラック・ジャックは思った。  室内はいつのまにか音に満ちていた。エアサポートは、聞こえるか聞こえないかの小さく高い音がする。時には低音も混じる。多数のノズルと空気部品のエキサイターが出す音が、重なり、響きあい、厚みのある和音を作り出した。ブラック・ジャックの動きや患者の移動に従ってエア制御が進み、音程もテンポもどんどん移り変わって行く。  音楽のようである。音そのものは小さい。遠くの教会から漏れ聞こえるパイプオルガンの演奏を聞くようであった。  音楽の調べがブラック・ジャックの正確なメスさばきに快調なテンポを与え、彼の動きが今度は音楽にフィードバックされた。ブラック・ジャックとトワニーは、今や一つのシンフォニーを奏でていた。  シンフォニーの流れる中、手術道具が空中をひゅっと飛んではブラック・ジャックの手元に行き、なにがしかの仕事をしては、元の待機場所にひょいと帰った。さもなければ自分から廃棄箱に収まりに行った。道具達が命を吹き込まれ、ブラック・ジャックの命令の元いそいそと働いていた。モニタールームのロックは古い映画を思い出した。 「これは『魔法使いの弟子』だ……」  ブラック・ジャックが動きを止めた。膵臓に到達したのである。シンフォニーも間奏部に入った。  ブラック・ジャックは膵臓の腫瘍を観察した。大きく盛り上がっている。 「ひどい癒着だ」  病巣は膵臓にとどまらず、隣りあう胃と十二指腸までも大きく侵していた。 「胃および十二指腸も切除する。血圧に注意してくれ」 『はいドクター』  彼は再びメスをとりあげた。次の楽章が始まった。  循環器系を結紮切断。まわりの血管を傷つけないよう注意しつつ、癒着部を慎重に剥離。腸は二重に結紮して切断した。ブラック・ジャックは、彼だけに可能な素早さで正確に処置を進めていった。時間をかければかけるほど患者には危険だ。 「膵臓を切除。―――続いて、胃切除終り」  よし。もう少しで折り返しだ。 「十二指腸切除終り」  いまや病巣は全て取りのぞかれた。ブラック・ジャックは他の臓器への癒着、転移が見当たらないか慎重に観察した。何も無い。 「よし。では続いて空腸を接合する」 『はいドクター』  縫合糸を持って空腸末端の処置に取りかかった時、ブラック・ジャックは微かな変調に気づいた。  患者の体のずれはエアサポートが修正する。しかし、ずれからの回復時間が微妙に遅い。さらにエア射出ノズルの一つが一瞬調子っぱずれな音を立てた。ブラック・ジャックのうなじの毛がざわついた。変だ。 「トワニー、何かおかしい。どうした?」  コンピュータにしては不自然なほど、トワニーの返事が遅れた。 『―――異常です。異常事態です。エア射出器の一部が私の制御下を離れました。指令に応答しません』  同時に警告音が耳障りな音を立てた。モニタールームのロック達が飛びあがり、状況確認のために制御卓に取りつくのが見えた。  射出ノズルの幾つかが一斉にザーッという音を立てた。患者の体が五センチメートルほど浮かび上がったが、次に別のノズルが動作し今度は反対に沈み込んだ。ブラック・ジャックも顔に風を感じた。これまでは顔面に風を感じる事はなかった。また患者が浮き上がり、沈み込んだ。さっきよりも振れ幅が大きい。 「どうなっているんだ、トワニー!」 『射出器のちょうど半数が勝手に動いています。私の停止指令を無視しました。射出器には低レベルのコンピュータが組み込まれていますが、現在そのコンピュータだけで独自に動作しています。内部の制御命令だけで動いているようですが、制御関数が収束しません。発散しています』 「意味がわからん!。どうなるというんだ?」 『エアのパワー上限まで、どこまでも振れ幅が増大します』  冗談言うな!。ブラック・ジャックは、患者の体が酸素や点滴のチューブをひきちぎり、壁面に何度も激突する光景を思い浮かべた。  ブラック・ジャックは患者の体を抱きかかえた。次の風が襲ってきたのを、なんとか耐えたが、彼の粘着性靴底ではあまり保ちそうにない。次かその次のサイクルには一緒に風に巻き込まれてしまいそうだ。ブラック・ジャックは叫んだ。 「ローック!。エアのパワーを切れ!」  インカムからロックが答えてきた。背後で、ビリオン会長がさかんにののしり言葉をわめいているのが聞こえる。 「それがだめなんだ先生。船のシステムは、非常時にも止まらないように、三重冗長設計にしてあるんだ。トワニーの指令が効かないとなると、ここからでは止められない。大元のメインパワーを切れば止まるが、それでは船の指令モジュール全体が死ぬ!」 「このスットコドッコイ!。なんて間抜けなシステムだ。なんとか手を考えろ!」 「やっている。プルートウとガロンの二人を中に入れる。乱暴な手だが、ハンマーでノズルを壊す。―――トワニー、何をしている!。なぜ私達を中に入れない!」  今や冷静なはずのロックが慌てていた。トワニーが言った。 『だめです。現在、残りのノズルを動員して、なんとか気流を相殺しています。ドアを開けて外部の空気とつながると、大気モデルが一気に複雑になって、相殺計算が困難になります。気流を相殺できなければ、すぐにでも中のお二人は風に飲まれます。ドアを開けるわけにはいきません』  くそっ、マーフィの法則か。うまく行かなくなる可能性のあるものは、必ずうまく行かなくなる。つい先程までのシンフォニーは跡形も無い。礼拝堂は、今や不吉な不響和音に満ちていた。空気部品はまだかろうじて耐えていたが、保持力が下がっているのか、それに支えられたメスが互いに触れて、シャリンシャリンと神経にさわる音を立てている。 「トワニー!。エアを止める手が何かないのか!。非常停止のスイッチとか、停止に移行させる条件とか―――」  ブラック・ジャックの言葉をさえぎってトワニーが即答した。 『それです。あります。異常なエアの流れを起こしてください。射出器のコンピュータは、自分達が作ったものではない異常なエア流を検出すると、その原因調査のために例外処理フローを起動します。通常処理フローは中断されエアは止まります』 「よし。いいぞ。それで異常なエア流とは?」 『時速一六〇キロメートル以上あれば』  トワニーのスカタンめ!。無茶言うな。 「だめだ!。どうやってそんな気流を作る。それに私はマザーから手を離せな―――」  いや、待てよ。ブラック・ジャックに思いつきが生まれた。  可能かもしれない。そのくらいの初速はあると聞いたことがある。しかし何だかバカバカしい思いつきだが。いや、やってみろ。他に代案は無い。ブラック・ジャックは素早く考えてから言った。 「トワニー!。私の顔に強い照明を集めてくれ!」  すぐに近くのパネルの輝度が上がり、ブラック・ジャックは目を細めた。鼻の奥がむずむずしてきた。よし、いいぞ。苦労してマザーから片手を離すと、まだつかんでいた縫合糸の先を引きだした。そのまま先端を鼻のアナにさし込むと、トワニーに言った。 「ホワヒー!。最適な気流の向け先はどこふぁ?」 『この赤い光点へ』 「よひ」  狙いを定めたブラック・ジャックは、意を決して思いきり鼻のアナをくすぐった。 「はあーっ、ふわーっ、ふわわーっ」  まだだ。もっと辛抱してタメるんだ。がまんすればするほど効果は大き―――。 「ぶわあぁーっくしょおぉぉぉーーん!」  コマを三つぶち抜く派手な描き文字で、ブラック・ジャックは盛大なクシャミをした。  射出器コンピュータのうちブラック・ジャックに近い七台が、異常なエア流を計測した。それらは、異常エアの流速を時速一七六キロメートルと評価し、直ちに例外処理フローに移行した。同時に異常信号を発行し、他の全ての射出器に異常発生を通知した。二秒以内に全てのノズルがエア出力を停止した。  急速にエア流が静まってゆく礼拝堂で、マザーを抱えたブラック・ジャックは立ちつくしていた。荒い息をつき、目玉をぎょろぎょろ動かして様子をうかがった。どうやら危機は去っていた。ほっとして膝が萎えそうになるが、ぐっとこらえた。休息するわけにはいかない。  オペはまだ終わってはいないのだ。  モニタールームではロックが立ち直っていた。ブラック・ジャックの思いきった行動で、エアの暴走が収束したのを見て取ると次々と指示を出した。 「トワニー。射出器を全部シャットダウンしろ。まだ暴走の原因がわからない。急いで行ったパラメータ調整で矛盾が混入したのかも知れない。特定できるまではどれも信用できない。シャットダウンできるか?」 『はい。今は私の命令に応答します。―――全部のシャットダウンが完了しました』 「OK。礼拝堂へのドアロックを解除しろ」 『はい。解除しました』 「問題は空気部品のシステムだ。これまでは問題なく稼動しているが、エア射出器側がこうなった今、実験レベルの空気部品システムに依存するのは危険だ。と言って、それらを止めるとマザーの固定も先生への支援もできなくなる。ダメだ。どうすれば―――」 「ロック。困ることはないんだ」  礼拝堂からブラック・ジャックがインカムで呼びかけてきた。 「不安定なシステムを使うのは、やはりあきらめよう。まだ改良の余地がある。後でトワニーに協力してもらえば改良できるだろう」 「しかしオペは?」  ブラック・ジャックはニコリとして言った。 「忘れちゃいないかね?。一番原始的だが、一番融通の効く手段があるだろう?。  ロック、爺さん。お前さん達の両手を使うんだよ。その手でマザーをしっかり支えるんだ。私に縫合糸を渡してくれるんだ。血を拭きとるんだよ!。  オペはもう折り返し地点を過ぎている。もう少しだ。お前さん達の手があれば、私がなんとかしてみせる。私の医療用語が分からなくても、トワニーが仲立ちしてくれる。血圧や心拍のモニターもトワニーに任せれば良い。手が足りなければ、そこに集まって心配している非番のスタッフがいる。大丈夫だ。マシンに頼りきる事はない。マシンと人間が得意な所を分担し合えばいい。お前さん達の手でマザーを助けるんだよ!。  爺さん。あんたの手でマザーを生かすんだよ!。あんたが一番やりたいのは、本当はそういう事じゃあないのかね?」  見るとモニタールームはすでにカラになっていた。予備の手術用手袋と帽子を身につけたビリオン会長とロックが、早くも礼拝堂のドアをくぐり抜けていた。  会長とロックがマザーの支持にまわった。他のスタッフを招き入れ、手術道具を渡すもの、飛沫をドレーンで吸収するもの、手薄な部分をカバーする遊軍役などに配置した。ブラック・ジャックは、感染症防止の注意をしつこく述べ、急ごしらえのチームに形をつけた。  処置が再開された。初めはもちろん歯車がかみ合わない。ブラック・ジャックは、さんざん叱りつけ、うまくいけば褒めてチームを誘導した。トワニーがうまいタイミングで口をはさみ、ブラック・ジャックの指示をスタッフに翻訳したり、光のスポットで照らして用具を教えたり、手伝う位置を指し示したりした。  みんなが口々に意見をしゃべり出して三度収拾が付かなくなりかけたが、三度ともビリオン会長の一喝が静めた。手術野を見て気分の悪くなったスタッフが途中で四人交代した。素人揃いのメンバーだ。そう長時間はもたないぞ。ブラック・ジャックは素早く処置を進めていった。  出来の悪いチームだった。ブラック・ジャックとトワニーが奏でたシンフォニーのような流麗さはかけらも無かった。しかしそこには不細工ながら別の種類のリズムが生まれていた。トワニーと人間達の間に、深いところで何か新しい了解が発生しているようだった。  ブラック・ジャックが最後の縫合を終えた。 「トワニー、状況は?」 『脈拍、血圧ともに許容範囲内です』 「よし」  長く困難なオペであった。ブラック・ジャックは皆を見まわして言った。 「マザー・メアリーライトの術式を完了した」  そして心から付け加えたのである。 「諸君の協力に感謝する」  オペの緊張が解けず、皆はまだ奥歯を噛みしめて突っ立っていたが、ビリオン会長が一番最初に反応した。 「マザーは無事じゃ!。マザーが生き延びたぞ!」  その声が、オープンになっていた船内の一般放送に流れた。  そして船内は、鳴り止まぬ盛大な拍手と歓声にわき返ったのである。  十七時間後。麻酔からさめたマザーはブラック・ジャックに言った。 「ありがとうブラック・ジャック先生。私に時間をくださった事を感謝します。全てあなたのおかげです」 「フフフ。そうでもないんだ、マザー。みんなが少しずつ、あんたを助けたんだよ」 「聞いています。ビリオン君がそれを大変喜んでいました。とても大変な手術だったとか?」 「ああ、ハリウッド映画のようにドキドキしたよ。―――例の仕事にかかるのかい?」 「はい。そのためにお願いした手術です」 「そうか。うまくいったら神様とやらに、私からもよろしくと言っといてくれ」 「あっはっは。わかりましたよ」 「仕事もいいが、あの爺さんと世間話をするのもいいと思うがね」 「――――ありがとうブラック・ジャック先生。お言葉、忘れませんよ」  三十一時間後。ビリオン老人はブラック・ジャックに言った。 「どうじゃブラック・ジャック君。地球の姿を楽しんでおるかね」 「堪能してるよ爺さん。こんな贅沢な経験はまたとないだろう」 「そいつは良かった。ところで、スットコドッコイと言うのは語感が気に入ったが、また他に頼む」 「あんたの趣味はわからんな爺さん。そうだなあ、ムダメシグライ、ヒョーロクダマ、ステレンキョー、モモンガア」 「待て待て。トワニー!、記録しておるか?」  トワニーが生真面目に復唱した。 『はい。ムダメシグライ、ヒョーロクダマ、ステレンキョー、モモンガア』  六十八時間後。ロックはブラック・ジャックに言った。 「先生。おむかえのシャトルが来ました。―――どうかしましたか?」 「オムカエか。いや、黒服を着た鼻の長い小男が出てきて何か言いそうだが?」 「何の話か分かりませんが」  ブラック・ジャックは、こちらを向いて言った。 「そうか。定石をわざとはずしたな………」 「誰としゃべっていますか先生。それより一仕事済ませましょう。この風船を取ってください」 「――― !。ロック、その風船はよせ!」 「冗談です。申しわけありません。会長から、大気圏再突入まではシャトルからの眺めをお見せしろとの事です。これも素晴らしい眺めですよ。ただし、それ以降は窓のない乗り物で移動していただきます」 「風船抜きなら文句はいわんよ」  そして百二十六時間後。ブラック・ジャックはわが家のポーチまで送り届けられたのである。     8  夏ももう終りだな。ブラック・ジャックは診察室の窓から暮れて行く夕空を見上げた。日の入りはだんだん早くなり、雲も夏雲から高い空に出る秋の雲に交代を始めている。外の草むらでは、すでに気の早い秋の虫が鳴いている。  ブラック・ジャックは拾い読みをしていた医学誌を脇によけ、パイプに火をつけた。  あれからもう一か月になる。あの爺さんはどうしているのか。マザーはまだ存命なのか。あの途方もない『仕事』は終わったのか………。  連中からは特に何の連絡もない。それはいい。仕事が終われば患者と私は袂を分かち、それぞれの方向へ歩み去って行くだけだ。  ブラック・ジャックは両腕をウンと伸ばしてリラックスした。  彼の前髪がゆれた。風か。もう一度前髪がふわりと持ちあがった。  不思議な気分がした。まるで誰かの指先が触れて私の髪の毛をかきあげていったような……。なぜか懐かしい……。  目の前に小さな白い光の点が浮かんでいた。なんだ?。ブラック・ジャックは指先をのばしてその点に触れてみようとした。  突然光の点は爆発し、大きな円盤に広がりこちらに突進してきた。あっと思う間もなくブラック・ジャックは光の円盤の表面を突きぬけた。耳元で風のような音がゴッと鳴った。彼の周囲が真っ白になった。  ブラック・ジャックは真珠色をしたモヤの中を歩いていた。 (どうしたんだ。私は今、何かの発作を起こしているのか?)  彼は腕を上げて手の平を見た。ワイシャツの袖口の生地を観察した。ボウタイに触れてみた。直前の記憶を細かく点検した。全ては正常に思われた。今いる場所だけが説明を拒んでいた。  初めは当てもなしに歩いているように思ったが、前方の非常に遠くに黄色い広場のようなものがあるのに気がついた。彼の足はそこに向かっているようだった。  ブラック・ジャックは歩きつづけた。周囲の景色には、まったく変化が無く、どこまでも真珠色のモヤが続いている。単調さに飽和した彼の思考は、自然と過去の記憶へと向かっていった………。  風の中、マザーを抱えて立ちつくしていた。上下逆にぶら下がった会長が笑った。荘厳な地球の姿に見とれていた。診察室で三人の男と向き合っていた。  彼の記憶は、さらにさかのぼっていった。瀕死の若いタクシー運転手に、極めて困難な脳移植を施していた。エルサルバドルの教会で、奇跡的な手術を行った神父と対話していた。アフリカの村落で、医者というものの理不尽な運命に激情した。おのれの鏡像のごとき宿敵、死神と呼ばれた銀髪隻眼の医師とにらみ合った。  一歩足を進めるごとに、一歩過去に踏み込むようであった。彼は過去の情景に入りこんでいった。その時の感情までもが鮮明によみがえった。美しき敏腕の女医にふと心惹かれた。救えなかった恩師の最期の言葉をかみしめていた。しゃくりあげて泣くピノコの小さな手を取り二人で歩いた。淋しい崖の上の一軒屋で開業した。若い医局員の彼が最初で最後の恋をしていた。学友に距離をおいたまま医学を学んだ。  若く暗いあの時代に向かっていた。それに気づき彼は抵抗したが、真珠色のモヤは歩みを止めさせなかった。人を寄せ付けずただ一人、黙々とダーツの腕をみがいた。楽天的な笑いをやめない、漫画家志望の友にイラついた。心が頑なに閉ざされていった。どす黒い復讐心が暗く燃え盛った。不自由な体に鞭打ち、延々と続く国道を排気ガスを浴びながら歩いた。歩けなくなれば這った。愉快に遊ぶ友達を校庭の隅の車椅子から寂しくみつめた。出て行く父の背中を力無く見送った。友にもらった顔面の皮膚に触れてみた。  急に高まる激痛が全身を襲った。切りつけるような痛み。刺すような痛み。引きちぎられるような痛みが間断なくやってきた。転げまわりたかったが、動かぬ体はそれすら許さなかった。目がくらんだ。思考が千にも万にも砕かれ、その一つ一つが痛みに責めさいなまれた。赤黒い爆発の光が膨張し四肢がちぎれて飛び、暗黒の闇が降りた――――。  再び耳元がごうっと鳴り、彼は明るく暖かな黄色い場所にぽろりと降り立った。まぶしさに彼は目をしばたたいた。初めに遠くに見えていた広場のような場所に違いない。  土の匂いがした。盛り上がった細い道が続いているのは、あぜ道である。黄色は一面に広がる菜の花畑だ。霞んだ空ではヒバリの声がする。道端には、カタバミやヒメスミレが小さな花を付け、タンポポの花弁からテントウムシがふいと飛んだ。暖かな風が吹いた。  どこも痛まない。頭痛もしない。体は出来たてのようだった。何の悩みも無かった。世界は彼の友達で一杯で、友好的で、単純だった。  彼は楽しくなって駆け出した。体が軽い。いくらでも、どこまでも走っていけそうだ。小さな水たまりをぽんと飛び越えて着地した彼の足はズック靴を履いていた。いつしか彼は小さな男の子になっていた。  少年はどんどん走った。早く生まれたアゲハチョウが横切った。小川では小魚の銀色の腹が見えた。ハナアブが追いついてきてしばらく伴走したが、ブンと羽音を残して去った。世界は上機嫌だった。少年は走りながら声をあげて笑っていた。  遠くから呼ばれたような気がした。走っていく先に平屋の家が見えてきた。そうだ、きっとオヤツの時間なんだ。生垣をまわって木製の裏口を押し開け庭先に駆けこんだ。縁側で仕事をしていた若い女性が手を止め、走ってくる少年を見て笑いかけた。 (―――そんな、そんなはずはない。あの人はとうに居ない。これは幻だ………)  少年の中のブラック・ジャックは微かにそう思ったが、あふれる懐かしさ愛しさに逆らうことはできなかった。 「お母さん!」  ブラック・ジャックは母に飛びつき、笑い転げ、その膝に ―――世の中にただ一つある憩いの場所に―――顔を埋めた。  少年は居心地の良い母の膝に頭をあずけ話をしていた。言いたいことがいくらでもあり、いつまでもしゃべり続けた。若い母はにこにこと少年の話を聞き、指先で優しく少年の前髪をかきあげた。 「それでぼくはお医者さんになったんだ。すごいんだよ。世界でいちばん手術がじょうずなんだ。それでね、困った人がみんなぼくの所に来るんだ。お金だって、いっぱいかせいだんだ。ずるいことはしてないよ。悪いことはしてないよ。すごいお金持ちからは、いっぱいもらうんだ。お金はないけど、どうしても治りたいって思ってる人にはオマケしてるんだよ。それでね、それでね、悪いやつはやっつけてやったんだよ。お母さんにひどいことした、悪いおとなを見つけて、すごくこわい目にあわせてやったんだ。お母さんをいじめたお父さんだって、泣かせてやったんだ。ね、すごいでしょう。お母さんのしかえしをしてやったんだよ」  若い母は、少し困ったような顔を見せたが、すぐに笑い顔に戻った。 「ねえお母さん。ぼくはがんばったんだよ。すごくすごくがんばったんだよ。でも、他のお医者はいじわるなんだよ。ぼくがお金をいっぱいかせいだり手術がじょうずなのがいやなんだ。だから、いろんないじわるをするんだ。でも、ぼくは負けないんだ。一人でも負けないもの。ときどきはちょっと悲しいけど―――。ううん、そんなことない。ぼくは悲しいことなんかないよ。へいきだよ。だから安心してよ。それからね、それからね―――」  少年は、いつまでもいつまでも話つづけた。  どこか遠くで、ポオンと鐘のような音がした。まだおしゃべりをしていた少年を優しく制して、若い母は座りなおした。日が暮れかけていた。雰囲気を察して、少年も母の前に正座をした。 「もう、いっちゃうの?」  母は少し悲しげに笑い、それから両手を少年の小さな肩において表情を改めた。若い母の唇が初めて動き、少年に一つの言葉を言った。声はしなかった。しかし、少年の胸にはその意味が、熱くまぶしく焼きついた。  ――――スクイナサイ。  ポオンポオンと鐘が二つ鳴った。  母が、すっと遠ざかっていく。いや、少年が戻りはじめていた。 「いっちゃうの?。やっぱりいっちゃうの?。―――わかってたよ。平気だもの。だいじょうぶだよ。ずっと一人でやってきたからね。さびしくなんかないよ。でも―――」  母のいる縁側全部が見え、次には家全体が見えてきた。家屋の全景が小さくなっていく。遠ざかる母の笑顔がどんどん小さくなっていく。 (でも、それはウソなんだ。また会えたと思ったのに、もうお別れなんてひどいよ!)  速さがぐんと増し、菜の花畑が遠ざかる。母はもう見えない。すでに少年ではないブラック・ジャックは、心の中で大声をあげていた。 (淋しくないはずがない。悲しくないはずがない。あなたには、まだまだ話したい事があったんだ。あれもこれも伝えたかった。ピノコも見て欲しかった。もっと甘えていたかった!)  菜の花畑は、もう黄色のポツンとした点にしか見えない。速さはますます上がり、真珠色のモヤは今やブラック・ジャックの耳元で、どうどうと吹き過ぎた。 (私はあなたに生を受けた。慈しみ育てられた。ありがとう。私はあなたに感謝します。私はあなたが大好きでした。お母さん。お母さん―――)  さまざまな想いが堰を切ってあふれ、彼はついに声に出して叫んだ。 「お母さん!」  ブラック・ジャックが泣いていた。自分でも知らぬうちに涙が頬をつたい、いやます速さで遠ざかるモヤに散っていった。  ゴッという音と共に、白く光る円盤が目の前で急速に縮まり、小さな点となり、二三度またたいて消滅した。  ブラック・ジャックは診察机の前に、パイプを手にした先ほどの姿勢のまま座っていた。体がふるえていた。涙は流れていなかった。しかし胸には別れの痛みが強く残っていた。  今のはいったい何だったのか。暴風雨の後のように頭の中が混乱していた。ただ一つの言葉だけが、いつまでも脳裏を駆けめぐっていた。  ――――スクイナサイ。救いなさい。 「先生。せえーんせいってばよのさ!」  横からボウタイを乱暴に引っ張られて、ブラック・ジャックはようやくピノコに目をやった。 「先生ろうしたのさボーッとして。国際電話よのさ。ミスター・ビリヨンって言ってるのさ」 「ビリオン会長?」  ブラック・ジャックは受話器を取った。一つの予感があった。     9  船からの電話は大きな時間遅れとエコーを伴っていた。老人の声は憔悴し、心ここにあらずの様子だった。 「ブラック・ジャック君。マザーがなくなった。残念だ。残念極まる」  やはりそうか。ブラック・ジャックは言葉遣いを改めた。 「―――そうですか。お悔やみ申します。いつ?」 「つい一時間ほど前じゃ」 「今日まで生き延びられたとは、むしろ奇跡的ですな」 「ああ。それがなブラック・ジャック君。マザーがおらんのだ」  老人は何を言っているのか?。ブラック・ジャックは彼の疲労とストレスを心配した。 「おらん、とは、どういうことですか?」 「船におらんのじゃ。礼拝堂の中から消えうせてしもうた」 「そんな、馬鹿な」 「ああ。信じられん話じゃ。ロックやトワニーが総出で探したがどこにもおらん。方法を変えてまだ捜索を続けておるが……、わしはもうマザーは戻らないと考えておる。どうもこちらで不思議な事が起こったのじゃ」  老人は話を始めた。 「今日マザーが危篤になった。わしも覚悟はしておった。マザーの側に付き、ずっと手を握っておった。マザーの意識は途絶えたりふっと戻ったりしていたが、亡くなる直前に、はっきりとわしを見てこう言ったのじゃ。『ビリー君ありがとう。光る鳥が迎えに来ました』と」 「――――光る鳥。火の…鳥…ですか?」  ブラック・ジャックはそのイメージになぜか慄然とした。恐怖ではない。畏怖のようなもの。巨大なものの存在をすぐ側に感じた時、矮小なものが一方的に受けてしまうストレス――オーラの圧力のようなものを感じたのである。老人は話を続けた。 「そのあとマザーは息をひきとった。トワニーが臨終を告げた。  ところが、すぐに船のエマージェンシーが鳴ったのじゃよ。わしはびっくりした。訓練でしか聞いたことがないアラームじゃ。トワニーが報告してきた。船のセンサーが、船の極めて近くで、異常な高温と高輝度の発光を観測したと言うのじゃ。ロック達が直接目で見える窓へと飛んでいった。  わしはまだマザーの手を握っておった。いまの騒ぎでちょっと注意がそれた。ふっとマザーに目をやると。―――もうマザーはおらん。影も形もない。ところが、わしの手にはずっとマザーの手の感触があったのじゃよ。不思議なことじゃ。  ブラック・ジャック君。夢の中で何かをしっかりと握っていたことはあるかね?。命綱でも、宝の箱でもよい。その時握っているものの感触は夢の中では紛れもなく本物なのじゃが、ちょうどそこで目が覚めると、握りしめていた感触ははっきりとあるのに手の中には何もない。それどころか、手はだらしなく開いたまま単に腹の上に乗っていたりする。ちょうどあんな感じじゃった。  すぐさまマザーの失踪にトワニーが気づき、船は大騒ぎになった。いまも混乱しておる。船外の異常な光も、きれいさっぱり掻き消えて謎のままじゃ」 「トワニーは見ていなかったのですか?」 「トワニーもな、マザーが消えた瞬間については妙な事を言うだけじゃ。『一瞬注意がそれました』だと。専門家は、トワニーが、ゲーデル文を受けて論理破綻したとか、メビウス・ホフスタッターループに陥ったとか騒いでおるが、よく分からん」  ここで老人は声をひそめて言った。 「ブラック・ジャック君。きみは『伝言』を聞いたかね?」  彼はあっと息を呑んだ。――スクイナサイ。  老人は彼の反応から答えを察した。 「そうか……。わしも聞いたのじゃ。スラムのクソガキのわしが、まだ若いマザーの前におった。そこで伝えられたのじゃ。  オシエナサイ、とな。  わしは考えた。これはマザーの『最後の仕事』が、何かの成果を上げたんではなかろうか。マザーは神様の所で、騒いで暴れて困らせて、何かの力をちょいともらって来たんじゃなかろうか。そして、わしや君や他のだれかに伝言を残して行ってしもうたんじゃ。わしはそう思う。神様が一枚かんでいるとなると、わしらがいくら調べても何も分かるまい。わしはそれで構わん」  老人の言葉に力が満ちてきた。 「ブラック・ジャック君。わしは教えるつもりじゃ。  学校を千でも五千でもおっ建ててやるつもりじゃ。鉛筆やクレヨンやノートや黒板を、いくらでも用意してやるつもりじゃ。そして、マザーがわしに教えたように、文字や計算や遊びや歌や、勇気や思いやりの心や、それから……なんでもええ、立派な事を山ほど教えるつもりじゃ。  いやいや、その前にまずは優秀な先生を現地で育てなくてはならん。まて、腹が減ったり、鉄砲の弾が飛んでくるようでは、おちおち勉強もしておれん。飢えにも戦さにも対抗せんといかん。  これは忙しくなってきたわ。君と話しとるヒマはない。もう切る。  では達者でな。ブラック・ジャック先生のヒョーロクダマめ!。ひゃっひゃっひゃっ―――」  一方的に電話は切れた。  ブラック・ジャックはパイプを片手にポーチに出て夕空を見上げた。  ハケでさっと描いたようなスジ雲が高い空にかかっている。それよりもさらに高い所を、金色に光る点がゆっくりと渡っていくのが見える。どこかの衛星である。ビリオン会長の船も、きっと今頃どこかの地上から、あのように見えているのだろう。  あれが何だったのか、神様とやらに関係があったのか、ブラック・ジャックには分からなかった。ただ、マザーの強い願いだけが確実に分かった。 (マザー。伝言は確かに受け取ったよ。いちばん大切な人に伝言をゆだねるとは、あんたも油断ならないな。参ったよ。しかし―――)  ブラック・ジャックはマザーに向かって言った。いや、マザーと、世界に満ちている何か途方もなく大きなものに向かって語りかけていた。 (あんたたちは、伝言を聞いた者達に何とかしろと言うのか。  この壊れやすい地球を。愚かな人間を。  浮気者で派手好きで、けばけばしく飾りたて、嫉妬ぶかく他人を信用せず、うそつきになり残忍な人間。それでいて、時として英知にあふれ、偉大で、他人のために命すら投げ出すこともある、憎むべき愛すべき人間を!)  ブラック・ジャックはつぶやいた。 「スクイナサイ、か」  彼は幾つか輝きだした星を見上げ、自分に向かって言い聞かせた。 (言われるまでもない。私は、これまでも、これからも人を救い続けるだろう。その人のために。何よりも自分が生きるために!)  天頂を行く衛星の光を、ブラック・ジャックはいつまでも見送っていた。 「先生ー、早くゴハンを食べてくえないと、いつまでも片付かないよのさー!」  キッチンからのピノコの呼びかけが、彼をいつものあわただしい日常に連れ戻した。  よし、まずは手始めに晩飯を片付けてピノコを救ってやるか。ブラック・ジャックは苦笑しながらドアを入っていった。  世界各地で二四〇七名の様々な人が、様々な伝言を受け取っていた。彼らのこれからの行動が世界を変えるのか。それとも、一時の波紋を投げかけただけで六十億の人々の間に埋没してしまうのか。今はまだ誰も知るものは無い。  しかし、確かに伝言は届けられたのである。 ―終―